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「人生の目的」の見つかり方 このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-12 Mon 01:17
昨日のブログに書いた「絶対に開かないと思っていた扉」、開けたらやっぱりすごいものがいっぱい入ってました(笑)。

自分の人生の目的達成のために確実に必要になるものにたくさん触れることができました。

おもしろいなと思うのは、「人生の目的」って、それ単体で先に見つかるものじゃなくて、自分の生き方がそれにそっている時に、世界が自分に「そう、それだよ」って教えてくれる、ということです。

それは、小さい時にはみんなが知っていたこと。

でも大きくなるに連れて、多くの人が忘れてしまったこと。

もちろんずっとそういう生き方をしている人もいます。

この道を突き進むことに、躊躇する必要はないと背中を押してもらった1日でした。
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「プライド」の間違った使い方 このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-10 Sat 00:52
この宇宙の法則というのはひとつしかありません。それは、

「あなたが与えるものが、あなたの得るものである」ということです。

・・・と、バシャールさんは言うんですが、最近、実生活の中でこれを信じられるようになりつつある気がします。

今まで、小さなプライド、つまり、「なんかオレ大切にされてないじゃん」という気持ちから他人に対してやさしい態度が取れないこととか多かったんですが、そこで「あ、まだ与え足りないんだ」と考えることで自分の行動が変わると、ちゃんと大切にされている返事が返ってくることが多いぞ、ということが分かってきました。



そうすると、「今まで大事にしていたこのプライドってなんなんだろうな」って思ったりします。



プライドって、「自分に対する誇り」ですから、言い換えると「過去の自分は正しかったはずだという気持ちの表れ」だと思うんですね。

とすると、この視線の向かう先は非常に限定的です。「過去」の「自分」を見る視線ですから、そこには「現在」と「未来」が抜けているし、「他者」も抜けています。

これでは「未来(または現在)の他者」が「未来(または現在)の自分」をどう見るかなんてコントロールできるはずないよな、という気がします。



そもそもではなぜ「プライド」というものを人が生み出したのかというと、おそらく、現在や未来の自分がどうなるかということに対する怖れや不安があったのでしょう。

そんなちっぽけな裸の自分を奮い立たせるために「過去の自分は大丈夫だった。だからこれからも大丈夫なはずだ」と言い聞かせたくてプライドを作ってそれにすがったんじゃないかと思うんですね。

でもそこにはなんの根拠もないことは明白です。

なぜなら人は常に変わるからです。



逆に言うと、プライドには「ひとは常に変わる」という視点が欠けている、とも言えるわけです。

プライドそのものを否定しようと思っているわけではありませんが、ひとは変わるということをちゃんと理解して使わないと、間違った使い方をしてしまうのだなぁと思います。
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準備ができていれば現実は向こうからやってくる? このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-05 Mon 23:43
なんとなく、経験則として「準備ができていないものにチャンスは来ない」と思っていたんですが、これはやっぱり当たっているのかもしれない。

準備ができている、というのは、自分の観念、深層心理のレベルで、「それを受け入れるのにふさわしい自分である」ということを信じられるようになるってことなんだと思うんです。

逆に言えば、「準備ができていない」と思っている間は、観念レベルで「自分はそれにふさわしくない」と思っているわけですから、チャンスを引き寄せることもできないわけです。



ではどいういう準備が必要かというと、実を言うと、「準備ができている」と心から信じることが出来さえすればいい。

具体的に目に見える何かが変わらなければならないということはないんです。変わる必要があるのは観念だけ。



ただそれが、この現実世界に生きている僕らには難しいわけです。ただ心のなかで「準備ができた」って言うだけで準備ができるわけないでしょう、って思っちゃう。

バシャールさんの言うことを完全に理解し、信じることが出来ればこれだけでOKなんだと思います。でもそれは、一筋縄ではいきません。

なぜなら、我々はこの現実世界で、そういうことはできないという約束のうえで生きているからです。・・・とは言え、このことばの意味自体もバシャールさんの言ってることが理解できないとわからないので、ひとまずこれは忘れましょう。



心のなかで「準備ができた」というだけでは本当に準備ができたとは思えない。オーケー。では、どうしよう?



だったら、やっぱり現実世界でも認識できるような準備をしなくちゃダメだよね。とにかく自分自身が納得できるような準備をして、「準備ができた」と自分の観念に信じさせないといけない。

逆に言えば、自分の観念に信じさせることさえできるなら、その方法はなんでもいいわけです。

多くの場合、先生や上司がそう言ったとか、本に書いてあったとか、友だちが言ってたとか、テレビで見たとか、そういうやり方を信じて、そういう準備をするわけです。



ただ、その時に大事なのは、その情報源となる先生や本やなにかといったものを、ちゃんと信じていないとダメだってことです。信用できない人の言葉を信じようとしても、それは無理ってものです。よく「何を言うか」より「誰が言うか」だ、なんて言いますけど、それもこれと同じ原理ですね。

それはともかく、心から信頼出来る情報を得て、それにそった準備ができれば、「それを受け入れるのにふさわしい自分」になったと自分の観念を変えることができるので、「それ」が引き寄せられるようになります。

現実世界においては、そういう約束があるので、一般的にはそういう手順を踏む必要がある、ということです。



まず、この段階の「準備ができればそれにふさわしい現実が引き寄せられる」ということが理解できると、いずれバシャールさんの言う「ただ観念を変えさえすればほしい現実は引き寄せられる」ということを理解する準備ができてくると思うので、まずはここから、実践していければいいと思います。
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「問題」は、なくなればいいってもんじゃない このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-03 Sat 23:05
先日このブログにも書きましたが、ぼくには30年解決しない問題があります。

みなさんの中にも、長いこと解決していない問題があったりするでしょう。

先日のブログでは、それに真正面からぶつかっても解決しないなら、もっと自分が得意な、しあわせになれる部分を伸ばしていくことで勝手に解決できるかも、というようなことを書きました。

それについて、今度はまた別の角度から考えてみたいと思います。



まず大事なのは、この問題は、真正面からぶつかっていって解決しようとしても、決して解決しないということです。

その問題が人間関係だった場合、解決の方法というのは「じぶんが変わる」「相手が変わる」のどちらかであることがほとんどです。で、それができないから問題になってるわけですね。

そして、相手は決して変わらないです。バシャールさん風に言えば、「なぜなら相手とは自分の反映だからです」ということになりますが、そんなふうに哲学風に言わなくても、「相手は変わらない」というのは実感できると思います。だって、相手が変わってるなら問題解決できてますからね。

ならば自分が変わればいいのか、と言って、簡単に変われていればこれも問題解決してるはずなので、すくなくとも今の時点であなたは、その問題解決のために自分が変わる、ということを選択していない、ということになります。

御多分に洩れず、ぼくの30年来の問題についても、「自分から変わることはしない」という選択をしています。ぼくの場合は、「今の状況のまま、相手の求めるかたちに」自分だけが変わっても、相手はさらにぼくが変わることだけを要求してくることが火を見るより明らかであるために、まず自分が変わる、という選択はしないと決めました。


とまぁ、そういう状況があるとして。



では、どうしたらいいのか、と。



人生が、映画やRPGのようなものだとしたら、こうした問題というのは物語の進行に欠かせないスパイスです。自分を苦しめる問題やライバルというのは、物語を面白くし、自分を成長させるために必要不可欠なものです。

人生というものをそのように捉えることができれば、問題が存在することは、自分の人生を傑作にするために必要なものだと考えることが可能になります。

それならば、問題というのは小さな芽のうちに摘まなければいけないものではないし、むしろ大きければ大きいほどおもしろい。自分が今後さらに大きく成長するためのジャンプ台のようなものです。

そう考えると、問題というのは決して単なる敵ではなく、自分を強くしてくれる味方だとすら言えることになります。



ということは、問題というのは決して今すぐ目の前からなくなるべきものではなくて、そこにあることで自分自身を成長させるために存在するもの、そして成長したら勝手になくなるもの、と捉えていいんじゃないでしょうか。

つまり、人生を面白くするために必要だからそこにあるのが「問題」だ、ということです。

よく、「乗り越えられない試練を神様は与えない」みたいなことを言ったりしますが、これも意味合いとしては同じことです。



だから、「とにかく相手を変えて解決しよう」みたいに思うのは止めて、「この問題は、いつか自分が成長した時には勝手になくなるものなんだ」とゆったり構えていればいいんじゃないかと思うんです。

もうひとつ言えば、相手を変えて問題を解決することに成功しても、その問題は再びちがう相手となって出てきてしまったりするわけです。だって、自分自身はそれを乗り越えるだけの成長をしていないわけだから。



そういったことを認めて、「じゃあこの問題はじぶんをどう成長させようとしているんだろう?」と見つめなおすことで、その問題がそこにある意味が見えてくるようになるんじゃないかと思います。



・・・ちなみにぼくの場合は、まず今こうして「問題がある意味」を探求することができたというだけでも、その問題がある意味があった、ということになりそうです。まぁそれでこの問題が解決するわけではありませんが(笑)。
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雨に濡れたっていいじゃないか このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-01 Thu 21:53
今日の晩ご飯は外食だったんですが(ココイチでカレー)、駐車場に車を停めて店までが少し遠かったんですね。

で、店に向かいはじめたんですがちょうど雨がポツポツ降りはじめていたので、「これはゲリラ豪雨あるかも?」と思い、クルマに戻ってカサを取って店に行きました。



カレーを美味しくいただきまして、外に出たらまさしく大雨!

「我ながらナイス判断!」と自分を褒めましたとさ。おしまい。



・・・ではないんですね。まだ続きがあるんです。



昨日のブログでも書きましたが、偶然にどんな意味を与えるかは自分次第。

ですから、こうしてカサを持って濡れずにすんだ。これOKですよね。



でもふと思ったんですよ。でもカサを持ってないっていう偶然だってOKだよな、って。

つまり、その偶然に身を委ねて、濡れちゃったっていいんじゃないの? って。



すくなくとも、濡れないようにカサを持つという選択だけが正解じゃないだろう、と。

ほんとうの意味で人生をシンクロニシティに任せてワクワクすることだけするんだとしたら、カサなど持ち歩かず大雨の日はずぶ濡れになろう! という人生こそ本当のワクワク人生なんじゃないかって。



もちろん、どうしても濡れたくない日だってありますから、あくまでケースバイケースですけど、「雨に濡れる=避けるべきこと」という固定観念に縛られるのだけは違うんじゃないかなと思ったんです。



その意味で、モデルになるのは子どもですよね。

本当は、もっと子どものように世界の偶然を楽しんでいいんじゃないかな。

そんなことを考えたゲリラ豪雨の夜でした。
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