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「コクリコ坂から」見てきました~。今回は、駿演出じゃなくて吾朗演出でよかったんじゃないかな、と考えた理由 このエントリーをはてなブックマークに追加
2011-08-03 Wed 23:52
今日は「コクリコ坂から」を見てきました~。

とてもおもしろく、いい映画でした。

あれだね、子ども向けじゃないんですね、大人向けジブリ。



というわけでネタバレ有りなので続きは↓へ




とりあえず、主人公の松崎海ちゃんが「メル」って呼ばれてて、ふつうに「メルちゃん」だと(イヤにハイカラだなぁ、と思いつつも)認識しているところへ、お父さんとかの回想で「海」って呼ばれてて、「アレ? メルじゃないの? てか海って妹じゃなかった? なにこの人違い」とか思っていたら妹は「空」だということに気づいて「あ、海でいいのか。 …で、メルは?」としょうもないことで引っかかっていたのはぼくです。

ちなみに今ネットで調べたところによると、「メル」というのは「海」をフランス語で「ラ・メール」。ここからメールちゃん、メルちゃん、という派生だそうです。

ああ、やっとスッキリした。



長澤まさみちゃん、よかったですね。なんかもっと甘えた感じの声になっちゃうかと思ったら、メルの長女らしい気の強さがしっかり出てた。

今回は、駿さん演出じゃないので声優陣は安心して見れましたね(笑)。



作品としては、なんか今年この作品が見れてよかったな、と思える作品でした。

なんだろ、この作品に描かれている昭和30年代、東京オリンピックの前年という年は、日本中が知らないことだらけで知らないことにどんどんぶつかっていっている年で、知らないことなんて当たり前、ちっとも怖くない、という気分にあふれた年、時代だったんだろうなぁ、と思うんです。

そういう「知らないこと」をポジティブなワクワク感に変換して、「やってやるぞ!」っていうエネルギーにあふれていた時代。



一方現在っていうのは「高度情報化社会」であり、世の中に知らないことが溢れているのは一緒なんだけど、「知らないこと」を「知っていること」に変える作業がインターネットを通して簡単で誰にもできて、それ故誰もが「知っていなければならない」という時代の空気に圧し潰されそうな時代だと思うんです。

「ひとはあらゆることを知ることができる」という幻想に惑わされて、知識をひとより多く貯めこむことを良しとする時代。この傾向はテレビの人気クイズ番組なんかを見ても、いまだに信じられているんだろうなぁ、という感じがします。



でもあの震災があって、ひとは多かれ少なかれ、自分という存在のちっぽけさに気づきはじめている。「自分にはなんでもできる可能性がある」なんて幻想にすぎないんだ、ということに気づき始めている。

だって、インターネットがなくなっただけでものすごい喪失感です。それだけで、一気に自分がちっぽけな存在になって、心細くなってしまう。インターネットという毛皮をかぶることで信じられていた自分の万能感が剥ぎ取られ、何も出来ない裸の自分をそこに発見してしまった。



でもね。コクリコ坂の住人たちを見てみてください。彼らはインターネットなんてもちろん知らない。でも喪失感なんてありません。そりゃあたりまえだ。だってインターネットを喪失していないからね。もともと無いものは喪失できない。

そして失っていない、もともと持っていない彼らは非常にパワフルです。なにかを成し遂げたければ、小さなヒントを頼りになんの約束もなくともどんどん進んでいく。だってそれしかやれることを知らないんだもの。



そう考えると、「知っているからエラい」なんて幻想ですよ、やっぱり。「いつでも何も知らないところから出発できる覚悟」を持っているやつが一番えらいんじゃないかな。



つまりパワフルっていうのは、ひとつの道具に頼らずに、自分が成し遂げたいと思うことはその時その時で使える道具を発見して突き進んでいける力を持っているってことですね。



…なんか、こういう話になると思っていなかったんだけど、とりあえず今日の感想はこういう感じってことで。



あと駿さんと吾朗さんの話だけちょっと書きたいんだけど、今回の題材は吾朗さん演出でよかったと思いますね。

たぶん一番端的にこの二人の演出の違いが出るのは、最後メルと俊が港に向かうシーンだと思うんだけど、あそこで吾朗さんはリアルに徹してますよね。

あの三輪自動車がたまたま出てきて二人で乗り込む。この乗り込み方が、二人別れて両側に乗ります。ここ、駿さんなら間違いなく同じ側に、俊がメルを抱きかかえるように乗りますよね。心情的にはどっちもありだと思うんです。二人の気持ちとしては、お互い好き合っていることは分かってて、あとは兄妹じゃないという事実関係の確認だけ。それも大方大丈夫だと思っている段階で、まさにその事実を知りに行く場面。う~ん。ほんとにどう乗ってもいい。でも吾朗さんは別れて乗る方を選んだ。オーケー。



で、運転手のおじちゃんが「オレに任せとけ!」と威勢よく出ていく。



…にもかかわらず、その先渋滞。吾朗さんは、渋滞にはまって止まってしまうおじちゃんを描きます。あれ、「任せとけ!」じゃなかったの? しかも対向車線、ガラ空きですよ。でもそちらは使わず、お行儀よく渋滞に並びます。

ここ、駿さんなら間違いなく、

メル「あ、渋滞…」
俊「おじさん、急げない?」
おじちゃん「お~し、いっちょ行くかぁ!」

グッとハンドルを切って対向車線に飛び出して疾走し始める三輪自動車。

と、ハイカラな高級自動車が向こうからやってくる!

メル「きゃあ!」
俊「メル、大丈夫か!?」
おじちゃん「しっかりつかまってろよ~」

軽快に数台の車をよける三輪自動車。
と、異変に気付いた警官が出てきて止めようとする!

ハンドルを切るおじちゃん!

メル「きゃあ!」

三輪自動車、電柱をかすめてド~んと横をぶつけながらなんとか止まる!

おじちゃん「うぃ~、お前ら、無事か!?」
俊「ぼくは大丈夫。メルは?」
メル「大丈夫。それより」
俊「おじさんごめん、オレたち急ぐんだ」
おじちゃん「大事な用なんだろ、解ってる」
メル「おじさんありがとう」

走っていくメルと俊。

・・・とかじゃないかと思うんですよ。



ただ、これはそういう映画かといえば、必ずしもそういう映画である必要はないんですね。今回の題材は、吾朗さんのアプロ―チでぜんぜんよかったと思う。というか、仮に駿さんが上に書いたようなアプローチであのシーンを描くなら、その前の部分も全然変わってきちゃうわけですよね。



で、今回の作品のテーマ的な部分で言うと、そういう冒険活劇にしちゃうと、少しテーマがぼける気がするんです。テーマって何かというと、上に書いた現在の高度情報化社会の息苦しさを、昭和30年代の情報のない時代の元気の良さを描くことで際立たせる、みたいなことなんじゃないかな~、と。

その意味で、冒険活劇にしちゃうと、どうしても現実離れした世界になっちゃうので、「現在のじぶんたちとの対比」はしずらくなっちゃうんじゃないかなと。その意味で、吾朗さんの演出でよかったのではないかと、そういう結論に達したわけであります。ハイ。
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