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二郎は特別なんだろうか? ~風立ちぬ2回目見てきた~ このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-08-08 Thu 00:15
今日は2回目の風立ちぬ、見て来ました。

ネタバレありの1回目の感想は「監督はなぜ菜穂子をああ描いたか」という視点で書いてみましたので、そのおさらいも兼ねて見てみましたが、今回その見方について、「あ、まちがってた」と思うようなところは見つかりませんでした。

(ただ、彼女が山を降りるときの描写についてはしっかり見てきたので、それはあとでちょっと書いておきますね)



今回は、「夢に生きた二郎」という視点で、また別の話をしてみようかと思います。

てなことで、例によってネタバレありなので↓へどうぞ。
(また、ネタバレについてのちょっっとした考察は1回目の感想に冒頭に書いてますのでよかったらご覧くださいませ)





え~と、まず菜穂子が山を降りるときなんですけど、二郎からの手紙を読んで、もうこの時点で、「二郎が仕事をするのに自分が近くにいてあげることが必要だから行く。その後は自分は死ぬだろうけど構わない」というところまで見通していたんだと思います。

その後、汽車で二郎の元へ行き、「一目見て帰ろうと思ってたんだけど」と言うんですが、これはその瞬間の本心であったとしても、心の深いところでは上記のように思っていたと考えるほうが自然だと思います。

そして、その決心があることをこちらも無意識に感じ取った二郎が、「一緒に暮らそう」(だったか)という言葉を投げかけ、お互いに「そうするのがいい」と決心したんだと思います。

これらはすべて推測ですが、ただ「一緒に暮らそう」ということについて、お互い全く異議がなかったことは間違いありません。



二郎は、結婚すると黒川に伝えるとき「僕たちには時間がありません」と言います。そして、二人のもとにやってきた妹に対しても「僕たちは今二人の時間をとても大切に生きているんだよ」と言います。

つまり、ふたりは菜穂子の寿命が短いことを完全に受け入れたうえで、その中で出来るふたりにとって最善の選択をしたんだと思います。



その意味で、菜穂子は自分の寿命を受け入れたうえで「今自分が一番したいこと」=「二郎とともにあり、彼の仕事を応援すること」を選び、二郎も彼女の寿命を受け入れて、「自分が一番したいこと」=「飛行機を作り、そして菜穂子の近くにいてあげること」を選んだのだと思います。

この映画が人の心を打つのは、このふたりが、いや、主要な登場人物のすべてが、自分の命を懸命に全うしようとし、しかし周囲に対するいたわりを忘れず、そういう自分の行為の責任を取ろうともがいているからなんだと思います。



忘れたくないのは、二郎も菜穂子も決して自分勝手ではなかったということです。

二郎は決して菜穂子の命より自分の仕事を優先したわけではないんです。彼は菜穂子が自分の命を削ってでも彼の仕事を助けようとしている気持ちをくみ、「じぶんがいい仕事をすることが、菜穂子を一番生かすのだ」という信念で仕事をしていたんだと思います。

その判断は正しかったと思いますが、仮に間違っていたとしても、それが二人の選択であったならば、それを変えろという権利は二人のほか誰も持たないと思います。そしてふたりは、結婚を決めた瞬間からその責任をとることも決めていたのです。

そしてもうひとつ言えば、菜穂子はそんな二郎だからこそ結婚相手として選び、二郎もそんな菜穂子であったからこそ結婚相手に選んだんだと思います。

また、菜穂子の判断については、1回目の感想に詳しいのでそちらをご覧ください。





さて、夢に生きた二郎、という点に関して言えば、SNSを見ている限り、そんな二郎を見て自分を振り返り、忸怩たる思いをしている方が散見されました。

「やっぱり結果を残す奴はものが違う。それに比べて自分のような凡人は…」という思いを抱えてしまう方もいたのではないでしょうか。

たしかに最初から才能を買われて鳴り物入りで入社して、その後も上司の眼鏡にかない特別扱いされ続けた彼ですから、「ものが違う」のかもしれません。



でもこの映画の冒頭、10才の彼は挫折から入っています。すなわち、「目が悪い」。

あの時の彼は夢の挫折の瀬戸際だったはずです。「目が悪いから飛行機は止めておこう」と10歳の彼が飛行機に関する全てを諦めてしまう可能性はおおいにあった。

「設計士に目の悪さは関係ないし」というのはあくまでオトナにしかわからない結果論です。「飛行機に乗ること」にあこがれていた10才の彼にとって、目の悪さは致命傷に映っていたはずで、夢敗れる瀬戸際で、先生に借りた雑誌を読んだことで(その夕方に夢を見て)「設計士なら目が悪くてもできる」と新たな希望の火を灯すことができたわけです。



なにが言いたいかというと、ひとが描いている多くの「夢」は、みんなそんな瀬戸際にいるんじゃないかということです。つまり、次の瞬間夢を叶えるきっかけ(二郎の場合は雑誌)が目の前にポンとやってくるかもしれない。それを諦めずに待つこと。そして、目の前にやってくる偶然を自分の夢に貪欲につなげていく視線で見つめること。

決して二郎だけが特別だったんじゃない。偶然をつかまえることができれば、誰にだって二郎になる道はある。

そのことを信じるか信じないかはその人次第です。誰に強制されることでもない。でもあなたは、どちらの人生がおこのみなんですか?



ただ、それだけのこと。ただ、それだけの違い。



夢とは、その人がこの世に生まれてくるときに決めた、この人生の目的だという人がいます。そして、自分がワクワクするということは、その目的に近いということのサインなんだと言います。

これは、科学的に判定できるような話ではありませんから、信じるか信じないか、ただそれだけのことです。

でも、じゃあ人はなんでワクワクするんだろう?

そうしたひとの心の根本は、やっぱり科学では解明できません。

そして、「人は生まれる前から人生の目的を決めていて、その目的はワクワクすることでわかる」ということを信じることで生じるデメリットというのも、ぼくには特に思いつきません。



ならば、その自分のワクワクを信じて、それにそって生きることが、二郎や菜穂子のように生きる道のひとつなんじゃないか。ぼくはそんなふうに思っています。
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