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「風立ちぬ」、素晴らしかった! このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-07-24 Wed 22:08
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」、見て来ました。

ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、すばらしい映画でした。



まずは、この映画をまだ見ていない方へ。

ひとがその人生を悔いなく生きるということ、それがすべてなんじゃないかということを、堀越二郎という登場人物を通して、そしてこの映画を作っている駿監督自身が映画に向き合う姿勢を通して、二重にぼくらに教えてくれているような映画だと思いました。

人生に迷ったとき、この映画を見て「二郎はそう生きたのか。自分はどうだろう? どう生きれば、二郎のような悔いのない人生を歩めるだろう」と、そんなふうに自分を振り返ることができたらいいと思う。

と言っても、「ひとはこう生きねばならない」と肩肘張った生き方を押し付けるのではなく、自分の思うようにひょうひょうと生きることがその人らしさなんじゃない? と、やさしく教えてくれる映画です。

そのひょうひょうとした感じは、主人公の声を演じた庵野さんの朴訥とした感じが上手く表現しているので、それも含めてこれまでの宮崎駿監督史上、「声の表現力」が最高レベルの映画であったとも思っています。



さて、ここから先はネタバレありで行こうと思うので、イヤな方は読まないでください。

ただ、映画はなんの情報もない状態で見た時よりも、あらすじや結末などの情報を知ったうえで見たほうが満足度は高くなる、という実験結果があるそうです。これに関してはぼくも経験上そう思うので、必ずしも「見てないから読まない方がいい」というものではないと思うよ、ということだけお伝えしておきます。

ということで、↓へどうぞ♪



登場人物の菜穂子は、堀越二郎が実在のモデルがいるのに対し、架空の人物だそうです。

ということは、彼女がどういう運命をたどるかというのは完全に駿監督のストーリーを描く意思に委ねられているわけで、それを読み解くことはこの映画で駿監督が何を描き、何を訴えたかったかということを読み解く助けになるだろうと思います。



風のいたずらで飛びそうになった二郎の帽子を菜穂子がキャッチすることで知り合ったふたり。

そして再会のシーンでは、風に飛んだ菜穂子の大きなパラソルを二郎が受け取りました。

そうして「貸し借りなし」になったふたりは当然のごとく結ばれます。



しかしその時には、すでに菜穂子の運命は、結核という病気によって定められていました。



その後、二郎とともに生きるために「病気を治す」と意思して「魔の山」のサナトリウムのような場所で療養する彼女ですが、おそらく「自分は治らない」と悟ったのか、山を降りて二郎の近くにいることを決心します。

イヤ、彼女は二郎からの手紙を読んで意思していましたから、「自分の病気がどうなろうとも、二郎の近くにいなければならない」と意思したと考えたほうがいいかもしれません。

その部分についての心理描写はなかったと思いますが、いずれにしても彼女は二郎とともにある決心をして山を降ります。



そして二郎とともに生活をはじめる菜穂子。彼女は、決して自分の病気を引け目に感じることはありませんでした。それはあたかも、二郎が病気である彼女を励ますことが、二郎自身を励ますことになると信じているかのようです。

床に伏す菜穂子の隣で夜、残業している二郎の手を彼女は離させません。それは決して、「じぶんが寂しいから、心細いから」ではなかったはずです。

彼女は手を離さないことで、すぐとなりでタバコを吸うことになる二郎を許します。

そこにあるのは、自らの命はどうなっても構わないという覚悟でしょう。自らの命を削ってでも二郎を励まそうとする、彼女の強い意思だと思います。



つまり、彼女は自らの命を削ってでも、二郎に「自分らしく生きて」と伝えたかった。むしろ結果的には、「命を削る」ことでより強く「生きて」というメッセージを伝えることができた。彼女はそんなふうに、短い自分の命の残りを使ったのだ、といってもいいのではないでしょうか。



二郎の飛行機が飛んだ日、菜穂子はその役目を終えたことを悟ったように山に帰ります。



この映画は、彼女の死をあえて描くことをしません。そのことを二郎がどう受け止めたかについても描写しません。ただ、ラストシーンの夢のなかで、菜穂子の「生きて」というメッセージをただ静かに受け止めるだけ。



なぜ駿監督はそういう描き方を選んだんだろう?



運命を変えてしまう奇跡だって描けたはずです。愛の力で病気を克服した、というハッピーエンドを望む方も多いかもしれません。そして、ナウシカやラピュタを作っていた頃の駿監督なら、もしかしたらそういう「奇跡」を描いたかもしれません。



でも駿監督は、今の駿監督は、運命に身を委ねるふたりを描きました。

それによって、駿監督は「この映画の主人公は特別でもなんでもない」ということを僕らに伝えたかったのかもしれません。彼らは、関東大震災に翻弄されるし、飛行機が殺戮兵器として使われることも受け入れます。そうした状況を静かに受け入れながら、「その中でも自分らしく生きることはできるんだ」と、そんなメッセージを僕らに投げかけてくれているように思うんです。



そんな意味で、この記事の最初に書いたように、「二郎はそう生きたのか。自分はどうだろう? どう生きれば、二郎のような悔いのない人生を歩めるだろう」と自分を振り返ることが出来れば、駿監督も喜んでくれるんじゃないかと、そんな想像を勝手にしています。
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