スポンサーサイト このエントリーをはてなブックマークに追加
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告 |
「果たして自分は、無数の命を奪う権利のあるような存在なのだろうか?」 このエントリーをはてなブックマークに追加
2013-07-24 Wed 01:26
昔から、直視するのがイヤで、つい目を背けつづけていた考えがありました。

それは、自分の命、楽しみ、欲のために殺生をする、ということについてです。




自分の命が、そして人生の楽しみが、無数の動植物の命の犠牲の上に成り立っている、ということはほとんどの人間にとって、否定しようのない現実だと思います。

そのことを認めたとき頭をもたげてくるのは、「果たして自分は、そんな無数の命を奪う権利のある存在なのだろうか?」という疑問です。

この疑問に対して、即座に「YES!」と答えられるひとはそうはいないだろうと思います。

そこに罪悪感を抱えながら、せめて「いただきます」と唱えてその命をいただいたりするわけです。

また、食べることのみならず、害虫駆除であるとか、雑草抜きなどという仕事も同じことです。他にも同様の仕事はいくつもあるでしょう。



こうした一連の、自分自身の所業を見るにつけ、ぼくは「自分というものは、生命体というものは、本質的に利己的で、他者にとって迷惑な存在である」と考えてきました。

つまり、「存在する」=「迷惑をかける」ということです。



「だから自分なんていなくなってしまった方がいい」とか「これ以上汚れる前に死んでしまおう」というような思想は昔からあったと思います。

ただこのニヒリズム的な考え方(いわゆる受動的ニヒリズム)を突き詰めると生きていけなくなってしまいます。

そこで「命というのは本質的に利己的で迷惑だ、ということを認めたうえで、そのなかで共存して行きましょう」という、いまいち煮え切らない考え方で生きていくしかないんだな、と思っていたんですね。

で、煮え切らない感じであまり美しくもないということも手伝って、つい目を背けて、このことについてはあまり考えないようにしてきたわけです。




そんななか、今日、店のスタッフ研修でとある庭におじゃましたところ、ハチ、コガネムシ、タマムシ、カブトムシなど、たくさんの虫が飛び回っていて、ふと「こいつらはなんのために生きてるんだろうな~」と思ったんですね。



昆虫の命って、とくにハチとかアリが象徴的ですけど、一つの巣というのが機能としての最小単位であって、その中に、心臓(および子宮?)のような女王アリ(ハチ)がいて、手足としての働きアリ(ハチ)がいるというようなかんじで、「個」という存在が曖昧な感じがしますよね。

それは昆虫にかぎらず、小さなイワシが群れでいることで、何割かが大きな魚に食べられてしまっても何割かが残るようにするように、「個」を犠牲にして「種」を保存するというような知恵がありますよね。



そのとき、手足としての働きアリ(ハチ)が外敵にやられて死んだり、群れの端にいたイワシが食べられてしまったりすることは、たんにその「個」が弱かったり、運が悪かっただけなんでしょうか。

むしろ、「彼らは自分の役割を演じたんだ」、とは考えられないだろうか。



「いや、別にそう考えたっていいけれど、そんなのただの気休めじゃないですか?」

「ていうかそれは殺生する側に都合のいいイイワケを与えるだけじゃない? あなたの命は、私に食べられることで私に楽しみを与えるという役割を演じました、ってね。」

「そもそも、そんなことをする権利が自分にはあるのか、ってところから始まった話でしょ」

そんな声が聞こえるかもしれない。というか、ぼくには聞こえた。



そしてそのとき、自分の中で久しく動いていなかった奥深くにある観念が、カチッと動いた。



もともと、これまでに書いたような考え方というのは、「じぶんが知ることのできるものは信じる。逆に、その存在が証明しようのないことは信じない」という観念の上に立脚しています。

つまり、わかりやすい例を挙げれば、「神様」とか「死後の世界」、「見えざる手」のようなものの存在を当てにしない、ということ。べつに存在を否定するわけではないけれど、考慮に入れると結論が出ないようなものは考慮しないということで、これは科学の基本的な態度といっていいでしょう。



この観念に立脚すると、命というのはこの一回限りということになりますから、この一回の中ですべての折り合いがつかないと都合が悪くなります。

そして、この一回の中で折り合いをつけようとすることで、「自分一人の命のために無数の殺生をしてしまう」というジレンマが起きるわけです。



ここに、これまで「証明できないので考慮しない」とされてきた、「魂は不滅で、何度でも生まれ変われる」という観念を入れてみましょう。

そうすると、「今回ぼくは、人間として、無数の殺生をする役割として生まれてきた」「今回、女王バチは、女王バチという役割を全うするために、働きバチもイワシも、彼自身の役割をまっとうするために生まれてきたんだ」と考えることができるようになります。そして、今回はそれぞれそういう役割で非常に不公平だったけれども、次回以降、今後も無数に生まれ変わり、たくさんの役割を演じることによってバランスを取って行きましょう、という約束があるとしたら、以下のように思えるんじゃないでしょうか。

「今回は人間になって、みんなにたくさん犠牲になってもらったおかげでとってもたくさんいい思いができて楽しかった。ありがとう。この借りは、生まれ変わった別の時に返すからね」と。



「そんなのこじつけでしょ!」と思われるのは理解できます。そしてそれを断固として否定することはできません。

また、宗教のイヤな香りを感じる方もいるかもしれません。科学が証明できない観念を取り入れるというのは宗教やスピリチュアルと呼ばれるものの常套手段ではありますから。



でもですね、この考え方を使ったほうが、明らかに健全に、精神的に健康に生きられると思いませんか?

だって、自らの存在を「本質的に利己的で迷惑だ」と考えなくて済むんですよ?

たしかにその考え方は「証明できない」考え方ですが、それは「間違いである」ということを示すわけではありません。ただ、わからないだけ。

しかも、この考え方は、「科学が証明できること」を前提にしていた時には結論がキレイに出なかった問題に対して、よりエレガントな答えを用意することができます。

そしてそれを信じたからといって、別に日常に悪影響をおよぼすこともありません。高いツボを買わされる心配もしなくて大丈夫です(笑)。



そして「みんな、僕の犠牲になってくれてありがとう!」と、こころから清々しく言えるようになることで、生きることは罪悪感に押しつぶされるようなことではなく、むしろ感謝に満ち満ちて、「彼らのためにもがんばろう」と、新しいモチベーションさえ生んでくれるものになるのではないでしょうか。

そう思わない?




・・・ずいぶん長く話して来ましたので、ここまで読んでいる方はほとんどいないでしょう(笑)。

読んでくれたあなたはエライ!



あなたの人生が、感謝に満ち満ちた清々しいものであらんことを。

別窓 | 考えたこと | コメント:0 |
<<「風立ちぬ」、素晴らしかった! | 「おもしろがり屋」樋口サトシのブログ | 回路が開いた?>>
この記事のコメント
コメントの投稿
 

管理者だけに閲覧
 

| 「おもしろがり屋」樋口サトシのブログ |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。